そして、次に「ブラウメア」をプレイしたのは、入社3日目。社員でのテストプレイの時である。
初めと変わっていた点は、
・カードがイラストに変わっていたこと!
・コマの動かし方
・ゲーム終了の条件 などなど。
感動したのは、言葉がイラストになっていたことである。
実は家でやった時も、友人から「言葉じゃなくて、できる限り抽象的なイラストの方がいい」という意見を聞いていた。
確かにその方が面白そうだと考えていたので、この変更は素晴らしいものと感じた。(もしかすると、イラストが用意できていなかったから文字だったのかも)
コマの動かし方も変わった。
サイコロを2つ振って、その数字が書かれたタイルにコマを置く。
分かりやすい。
初めは、黒と白のサイコロを1つずつ振って、黒なら時計回り、白なら反時計回りに進むというものであった。(コマは円状に並んだタイルの上を進む)
しかし、それには問題があった。どこに進むのかがすぐにわからないのである。
頭の中でコマを動かして。黒の場合はそこで、白の場合はあっちで。んん、黒はどこだったっけ。
分かりづらい。
個人的に、不用意な煩雑さは悪であると考えている。
例えば、麻雀の点数計算である。符や飜によって点数は細かく変わる。挙句、その点数すらも、3900や11600などの中途半端なものである。
確かに、計算を覚え理解すればその数字になるのであろう。
しかし、面倒臭い。とにかく面倒臭い。
歴史あるゲームにおいて、仕方のないことかもしれない。ただプレイするのは現代の人間である。
無駄な煩雑さは、単に参入障壁にしかならない。
また、MTGというカードゲームでは、相手の手札を見た際、その内容をメモして良いというルールがある。
なぜなら、MTGは記憶力のゲームではないからである。
主題が違うのだ。
自分が強いと思ったカードを持ち寄り、独自の戦略で、先を読み、ゲームプランを作る。
そこに記憶力は問われない。
記憶力を競いたければ、神経衰弱等、別の良いゲームがある。「記憶」は立派にゲームの1ジャンルだ。
蛇足的に記憶力を問われた場合、それは無駄な煩雑さとなってしまう。
完全に主観であるが、そのような煩雑さがあると、私は何度もそのゲームをしたいと思わない。
単に動く場所を決めるだけなら、簡単に移動場所がわかり、ストレス無く動かせる方が良い。
そのためサイコロの変更は大賛成であった。
また同時に、実際にプレイしないとわからないことがたくさんある、ということを再認識した。
ボードゲームを作る際、①ルールを作る→②コンポーネントを作る→③テストプレイをする という流れをたどることが多い。
すると、ルールやコンポーネントを実際に触るのが1番最後になる。
これがボードゲーム作りの恐ろしいところである。
どんなに机上で練られたルールも美しいコンポーネントも、案外簡単に不具合を起こす。
2つのサイコロを振って、どちらか選び、その数だけ決められた方向に進める。
プレイヤーに選択肢を与え、円形に配置されたマスも活かせるよいルールである。
しかし、実際にやってみると、思ったより面倒臭い。
私も自作のボードゲームでやらかしたことがある。
300枚くらいカードを作って、最終的に40枚くらいしか使わなかった。労力も金銭も飛んで行ったのだ。
これも実際にプレイしてみて、不要であることがわかったのである。
このように、プレイしてみないとわからないことは多い。それはルール面であったり、プレイ感であったり、コンポーネントの使い心地であったり。予想もしない不具合がたくさん見つかる。
プレイ感は特にそうである。考える際は、ルールとコンポーネントの操作は分離しているためだ。
テストプレイはやっぱり大事である。